「人間的感動の大部分は、人間の内部にあるのではなく、人と人との間にある。」 フルトヴェングラー、芦津丈夫訳、『音楽ノート』(白水社)
ドイツの偉大な指揮者、フルトヴェングラーの言葉です。舞台と観客との関係の中に生まれる劇的体験、美の体験が感動を生むと言っているように思います。言いかえれば、芸術の表現は相手あっての表現であること、また聴く者の存在の重要性が言われていると思います。
・・・
今回は、読者がドラマを生みだすということについて考えたいと思います。平山和子さんの絵本に『くだもの』(福音館書店)という作品があります。
すいか さあ どうぞ
もも さあ どうぞ
ぶどう さあ どうぞ・・・
ばなな さあ どうぞ
ばななのかわ むけるかな?
じょうずに むけたね。
絵本の中で「すいか さあ どうぞ」 と語っている人物がいます。誰にむけて「さあ どうぞ」 と言っているのでしょうか。文章を読むかぎり、わかりませんが、このように呼びかけられている人物がいます。これは絵本の中に想定される「聞き手」です。一般に、「聞き手」はおはなしに顔をだしません。読者は、 この 「 聞き手 」 を意識することなく、直接自分に 語りかけられた言葉として 聞くことでしょう。
この絵本の場合、「聞き手」が絵で描かれています。最後に登場する女の子です。「聞き手」の女の子が描かれていることに、読者(子ども)は意外な感じを持つこでしょう。自分に向けて「さあ どうぞ」と言われているとばかり思っていたのに、自分ではなく女の子に向けられていたことを、読者は最後になって発見します。これはひとつの矛盾です。その発見は複雑で微妙な感情体験を生みだします。読者の中にドラマが生まれました。「この女の子は、わたし」と言ってこの矛盾を解決する子ども(読者)もいることでしょう。
絵本を読むということは、読み手からの一方的な表現ではなく、読み手、語り手、人物、聞き手、読者のやり取りのなかで劇的な世界、ドラマをつむぎだしうみだすことと言えるでしょう。
『はなをくんくん』(福音館書店)という絵本があります。
「人物は知っているのに、読者は知らない」という関係を巧みに表現した絵本です。 ここにも面白いドラマが、読者のこころに生まれました。
のねずみ、くま、かたつむり、りす、やまねずみが雪のしたで、木のなかで 眠っています。あたり一面は雪。みんな冬眠中です。
や、 みんな め を さます。
みんな はなを くんくん・・・
みんな かけてく。
みんな、 ぴたり。
みんな とまった。
みんな うっふっふっ、
わらう、 わらう。 おどりだす…
うわあい !
雪のなかに、動物たちはなにかを見つけました。
でも、それがなんであるか、読者の子どもたちからは見えません。わかりません。くまが背中がじゃまで見えないのです。子どもが、絵本に近寄ってきて、くまにむかって「どいて」と手で払いのけようとする仕草をしたというエピソードがあります。子どもらし可愛いエピソードですが、「見たいのに見えない」子どもは真剣だったこでしょう。ここにドラマがあります。
児童劇のなかで、劇中の人物が観客である子どもに呼びかけるということがよくあります。悪役と戦う場面で、主人公が「おーい、みんな、ぼくに力を貸してくれないか」と観客(子ども)に呼びかけます。「がんばれ、がんばれ」という声援が、子どもたちからあがります。「よーし。力がでてきたぞ!」。舞台の人物と観客の子どもたちのあいだのこのようなやりとり(「対話」)は、よく見られるところです。
これは現実の世界にいる子どもを劇のなかへ引きこむ手だてです。また、観客の子どもにとっても、舞台の人物が、ぼくを見てくれている、わたしの応援にこたえてくれているとわかることは、とてもうれしいことです。ぼくとわたしと人物が、同じ世界を生きていることを実感します。
劇やおはなしの世界は、観客(読者)である子どもが参加し、作中の人物たちと一緒になって、その世界を生きることが、とてもたいせつなことです。つまり、ドラマというのは舞台の上で起こるのではなく、舞台と観客(読者)との関係、この関係の中にドラマ矛盾が引き起こされる、そこにドラマがあります。それを観客(読者)が体験・認識したときにドラマが成立するといえます。
絵本、紙芝居、人形劇、児童劇の世界をつくっていくのは、ある意味で、子どもたちであるとさえ言えるのです。