『平家物語』の世界、 鬼界ヶ島に流された俊寛(1143 - 1179) を描いた絵本です。
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安元3年(1177)
俊寛は、平氏打倒の陰謀(鹿ヶ谷の陰謀)が発覚して、 藤原成経・平康頼とともに鬼界ヶ島へ流されました。
治承 2年(1178)
赦免の使者の船が島にやって来ました。しかし、許されたのは、成経と康頼の二人だけでした。俊寛の名はありません。
「なぜだ、なぜだ。なぜ わしの名が ないのだ。」
俊寛は、島にひとり残されました。
纜(ともづな)に取りすがり、泣きさけぶ俊寛。
「ええ、未練な、おはなしなされ」
船は、纜を断ち切って、沖へと出ていきます・・・
『俊寛』の圧巻の場面です。
「まて、まってくれ」
俊寛は、こしまで 水につかり、なきさけぶ・・・
俊寛は、小高きところに かけあがり、
まるで おさない子のように、足をふみならし、
「のせていけ、のせていけ」
と なきさけんだが、船は しだいに 小さくなって いった。
(松谷みよ子さんの文章です)
治承3年(1179)
有王(俊寛の侍童)は、鬼界島に一人残された俊寛を訪ねます。
変わり果てた姿の俊寛。
「なんという かなしい おすがたでしょう」
「夢ではないのか」とつぶやく俊寛。
「北の方は、姫は、若君は」
「いまは、姫君ばかりが、奈良のおば君のところに おわします」
俊寛は生きる力を失いました。
二十三日後、有王に見守られながら、俊寛は亡くなりました。三十七歳の若さでした。有王から報告をうけた姫君は、十二歳で尼になり、有王も俊寛の遺骨を首にかけ、 法師となって俊寛の菩提を弔うのでした。
平家のゆくすえこそ、おそろしいことよと、ひとびとは ささやきあったという。
絵本『俊寛』は、『平家物語』巻三の「足摺」「有王」「僧都死去」で構成されています。『平家物語』の中で、俊寛は「僧なれども、心もたけく、おごれる人」と評価されていますが、絵本でも「心たけきひとと うたわれた」とか、「ごうまんなくらしをしていた」と説明されています。しかし、船にすがり泣く俊寛には、すでにその面影はありません。「まるで おさない子のように、足をふみならし・・・ なきさけぶ 」人物です。また、 島で亡くなる俊寛に世のはかなさと無情を感じます。俊寛の心の内を描いた松谷みよ子さんの文章は『平家物語』の世界、諸行無常を伝えます。想定される読者は、小学校高学年以上の子どもといえるでしょう。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」 『平家物語』
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※『俊寛』 松谷みよ子文、司修絵、ポプラ社、2006年06月
【 追 記 】
船が出ていく場面の『平家物語』の原文です。
「僧都せん方なきに渚に上がり倒れ臥し幼き者の乳母や母などを慕ふやうに足摺りをしてこれ乗せて行け具して行けと喚き叫べども漕ぎ行く舟の習ひにて跡は白波ばかりなり」(『平家物語』巻第三「足摺」)
司修さんが描かれた絵も力作です。 全体に優雅な絵で物語の展開を支えています。また、やせ衰えた俊寛は凄絶なすがたです。 その中に纜(ともづな)に取りすがる俊寛の絵があります。それは小高い丘から見られていますので、俊寛と船がちいさく描かれていることになりました。そこに少し違和感を感じました。纜(ともづな)に取りすがり泣きさけぶ俊寛の声が、絵から聞こえて来ないような気がしました。文と絵の異質な統一が、ある意味、味わいになっていると言えるかもしれませんが、月岡芳年(1839-1892)が描いた、手をあらん限りに伸ばし叫ぶ俊寛とは趣が違います。 (2022/2/19)