
原題は “ The Giving Tree ” 直訳すると「与える木」ですが、「与える」とは何を「与える」のでしょうか?
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昔、大きなりんごの木がありました。
木は、かわいいおとこのこと仲良しでした。
まいにち
ちびっこは
やってきて
きのはをあつめ
かんむり
こしらえて
もりの おうさま きどり。
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ちびっこは、木によじ登ったり、
りんごを食べたりしました。
ちびっこは木が大好きでしたし、木もちびっこが大好きでした。
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時は流れ、ちびっこは大きくなり──
大人になって、久しぶりに木のところにやって来ました。
彼は、木に言います。
「かいものが してみたい。だから おかねが ほしいんだ。 おこづかいを くれるかい」。
木は、
りんごを町で売ったらどうだろうと提案します。
彼は、
木によじ登って、りんごをみんなもぎとります。
「木はそれでうれしかった」。

この後、
大人になったぼうやは、家を欲しがります。
りんごの木は、枝を与えます。
年老いたぼうやは、船を欲しがります。
りんごの木は幹を与えます。
木は切り株になってしまいました。
木は、自分の全てをあたえ続けました。
ラストシーン。
よぼよぼとなったおとこは、休む場所がほしいとやって来ます。
「ああ それなら・・・さあ ぼうや こしかけて。こしかけて やすみなさい。」
おとこは それに したがった。
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すべてを与える木には、母のイメージ、神のすがたを容易に想像することができます。また、自分の身を削り与える木の行為を肯定的にも否定的にも解釈できるでしょう。好きな絵本のひとつですが、初めて読んだとき、なんだかすっきりしない終わり方だなあとも思ったものでした。いまも気になる絵本です。
『おおきな木』には、ふたつの翻訳、本田錦一郎訳(篠崎書林 1976年)と村上春樹訳(あすなろ書房 2010年)があります。ここでは本田錦一郎訳を紹介していますが、これらの翻訳には様々な意見や解釈があることを知りました。村上春樹訳が出たとき、幹を切られたところの文は議論を呼んだようです。本田訳は読者への「問いかけ」ですが、村上訳はりんごの木の生き方を否定する解釈でした。原文と翻訳は次のとおりです。
And the tree was happy … but not really.
「きは それで うれしかった … だけど それは ほんとかな」(本田錦一郎訳)
「それで木はしあわせに…なんてなれませんよね」(村上春樹訳)
「And the tree was happy … but not really.」は語り手の言葉であり、語り手の解釈です。本田錦一郎訳では、りんごの行為を見てきた語り手が「それは ほんとかな」と問いを投げかけています。村上春樹訳では「それで木はしあわせに…なんてなれませんよね」と解釈しています。語り手の言葉ですので、木のこころは見えません。読者の 想像に任されています。どちらの訳も読者に問いを投げかけているというところは同じです。 読者の解釈、意味づけが求められています。
どちらの訳をとるかと言うことよりも、読者がおはなしに参加しなければならないように仕組まれていることに注目したいと思います。おはなしの終わりは、読者の解釈のはじまりです。そして、すべてを与える木の行為についての解釈には終わりが見えないように思います。
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※『おおきな木』シェル・シルヴァスタイン作・絵、ほんだ きんちろう訳、篠崎書林 1976年
【追記】
本田錦一郎さんの「あとがき」にこうありました。
「この一本のりんごの木は、このかわいいともだちに、みずからの肉体を削って、葉を与え、果実を与え、…を与え、…を与え、すべてを与える。そして、この行為にりんごの木は、ただひたすら喜びをみいだしている。犠牲や喪失ではない。無償の見返りを期待しない、ただひたすらの愛であること。「与える」ことは、あふれるような生命の充実を意味する。彼の作品には、背後に確固たる思想がよこたわっている。」 (2021/10/19)