やさしい人物に囲まれて、ぼうやのしかは、春を知ります。
野原は、
もう春でした。
さくらが咲き、ことりがないて おりました。
山には
春は まだ きていませんでした。
生まれて いちねんにならない ぼうやのしかは、
春を 知りませんでした。
「おとうちゃん 春って、どんなもの」
「春には 花がさくのさ」
「おかあちゃん、花って どんなもの」
「きれいなものよ」
「ふウん」
ある日、「ぼオん」という音が 聞こえました。
「なんの 音だろう」
「ぼオん」
ぼうやの しかは、どんどん 山をおりてゆきました。
桜の木の ねかたに、
おじいさんが いました。
おじいさんは、
つのに 桜の ひとえだを むすびつけて くれました。
さくらの花の かんざしです。
「日のくれないうちに 山へ お帰り」
こじかは よろこんで 山に帰りました。
おとうさんじかと
おかあさんじかが、いいました。
「ぼオんという音は お寺のかねだよ」
「おまえの つのに ついているのが 花だよ」
「よい においの していたところが 春だったの」
しばらくして、山のおくにも 春がやってきました。
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新美南吉の幼年童話です。
春のことを知らなかった坊やの鹿は、花と花の香りで、春を知りました。ひとつ大きくなった坊やの鹿です。さくらの花のかんざしをつけてあげるおじいさん、こじかを見守るおとうさんじかとおかあさんじか。こじかを囲む人物たちの温かいこころを感じます。また、お寺の鐘が、春をよろこぶかのように「ぼオん」と鳴って響いています。
うつくしい春の情景を描いた心温まる南吉の小品です。情(主観)と景(客観)の一如の春のすがたです。
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※『里の春、山の春』 新美南吉作、鈴木靖将絵、新樹社 2015年 (2024/3/8)