
山田太一と黒井健の大人のための絵本です。舞台は60年以上も昔の東京。「私」が回想するファンタジーの世界です。
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私は、自分のまわりの地面に、チョークでマルを描いていました。
女の子が聞きます。
「このマルはなに?」
「このマルのなかへ はいっちゃダメ」。
「ユウちゃんならいいけど」
「私はダメ?」
「ダメ」
すると、
女の子が、すーっと宙に浮いたのです。
( 宙に浮いた? ファンタジー?)
(いいえ)
女の子を抱き上げたのは、大きな男でした。
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2, 3日たった夕方、また女の子がやって来ます。
そして、
つぎの夕方も、女の子は、私のマルに入っていました。
ふたりは話し合います。話し合いの中で、私」の友達の「ユウちゃん」が、肺炎で亡くなったことが明かされます。「私」は「ユウちゃん」の死を受け入れることができないでいるのです。空想する世界に閉じこもっています。

空想する世界のなかで、私は女の子と出かけます。
そして、悪いやつをなぐり、
子どもばかりの街を歩き、
花でいっぱいの小船に乗るのです。
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「私が、かわりの友だちになってあげる」
女の子は、「ユウちゃん」に変身し、「ユウちゃん」はニッコリ笑います。
「あッ」
「ユウちゃん」が声をあげ、「ユウちゃん」が宙に浮いたのです。
「ユウちゃん・・・」
しかし、宙に浮いたのは、女の子でした。
(私のこころが作り出した世界です)
あの怖い顔の大男が、女の子を抱きあげたのでした。
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大男は腹話術師でした。そして、女の子は腹話術の人形でした。私の世界の中で、現実と想像の世界はないまぜになっています。
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四月、私が小学校一年生になった時、大男と街で出会います。
「新しい友達は、できたかい?」
「少し」
「そうだな。いくらユウちゃんがよくても、死んだものは帰ってこない」
「夢と本当は違うんだ。ごちゃまぜにしちゃあいけない」
「おじさん・・・その人形の名前は、なんていうの?」
「リリアンだよ、坊や。リリアンだ」
リリアン。
六十年以上、むかしの話です。私はいまでもリリアンが少しぐらい、自分で動いて、自分でしゃべったにちがいないと思うのです。
リリアン。
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大人となった「私」の視点から、子どもだった時の思い出が語られています。複合視点です。視点の二重性が読者の体験を複雑にします。また、私の内(夢)と外(現実)のイメージがないまぜになり、不思議な時空間が流れていきます。
夜でもなく昼でもない夕方という時間の設定、視点人物が小学校にあがる前の私であることもファンタジーを支えています。殻にとじこもった私の世界の中では、現実と想像の世界が行ったり来たりしています。その世界で私の願望は実現し、亡くなったユウちゃんまで出て来ます。 奇妙な世界です。そして奇妙な体験をします。
「夢と本当は違うんだ」(大男の言葉)。
でも、絵本の「私」が思っているように、また大人のわたしたちにとっても「夢と本当は違う」けれど、夢と現実、過去と現在そして未来は地続きのように見えます。わたしたちは過去とも様々な関係を持ち、想像の世界のなかで様々な時間・空間の世界を行き来して生きています。夢現一如の世界はわたしたちの心の世界です。
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※『リリアン』 山田太一作、黒井健絵、小学館 2006年 (2022/1/20)