「語り手」と「聞き手」についての考察です。
宮沢賢治の「オツベルと象」の一節を引用しましょう。
語り手は牛飼いです。牛飼いが牛を育てている農民に向かって「オツベルと象」のはなしをしている風情です。
「そしたらそこへどういうわけか、その、白象がやって来た。白い象だぜ、ペンキを塗ったのでないぜ。どういうわけで来たかって? そいつは象のことだから、たぶんぶらっと森を出て、ただなにとなく来たのだろう。
そいつが小屋の入口に、ゆっくり顔を出したとき、百姓どもはぎょっとした。なぜぎょっとした? よくきくねえ、何をしだすか知れないじゃないか。」
「どういうわけで来たかって? そいつは象のことだから、たぶんぶらっと森を出て、ただなにとなく来たのだろう。」というのは、聞き手から「どういうわけで来たかって?」と問われたことに対して、語り手が答える形の言い方です。また、「なぜぎょっとした? よくきくねえ、何をしだすか知れないじゃないか。」も同様です。
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語り手と聞き手のこのような関係は、「オツベルと象」という作品にかぎらず、すべての文芸作品において成立する関係です。
語り手は作中の聞き手を相手として語っています。「オツベルと象」は、聞き手の存在が色濃く感じられる作品ですが、 語り手の言葉が誰に向けて語られているのか、聞き手がはっきりしない場合が多くあります。聞き手の姿は目に見えません。つまり、聞き手の「あなた」「君」は作中に顔を出さいため省略されているのです。しかし、語り手が語っているということは、すべて聞き手に向かって語っているのです。
では、独白はどうでしょうか?
独白は語り手の自分が自分を聞き手にしていると言えるでしょう。
一般に語り手が語りかけている特定あるいは不特定の聞き手が作品の中に存在しています。すべての作品は、語り手と聞き手との関係のなか、人物と人物をとりまくものごとが語られているのです。つまり、語り手も聞き手は虚構の世界としての作品世界の内に存在し「対話」しているのです。
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語り手と聞き手のこうした構造は、絵本を読んでいる子どものことを考えるヒントをあたえます。
読者の子どもは、一般に聞き手の側に立ち、語り手の言うことを聞くこになるでしょう。また、 語り手に入り込んでおはなしを聞いたり、読んだりしていく場合もあります。2つの場合が考えられます。
言いかえれば、読者の子どもは、聞き手の側に同化して聞き手の側から語り手の言うことを聞く場合もあれば、語り手に同化するということもあります。語り手と聞き手の両方に同化するということもあるでしょう。また、ある特定の人物に心を寄せて聞いたり、読んだりしていく場合もあるでしょう。また、 語り手、聞き手、人物の誰にも寄り添わず、異化して読むこともあると思います。
子どもが飽きずにひとつの絵本を読み続けるのは、読み手と語り手と人物の立場を意識の中で自由自在に移動して、作品を味わいつくそうとしている姿だ思います。