ぼくには とうさんはいない。
ぼくが うまれたとき
とうさんは もういなかった。
かあさんが はなしてくれた とうさんは
おとこらしく りっぱだ。
もし いきていれば
こんなとうさんだ。
・・・
どうしてとうさんは亡くなったのでしょうか。病気だったのでしょうか、事故で亡くなったのでしょうか。気になりますが、それは最後に明かされます。
ぼく と とうさんは、
毎朝一緒に 家をでる。
「今日もいい日だ。しっかりやろう!」といつも同じことを言う。
夕方、帰ってくると 懐かしそうにぼくを見る。
だまって かあさんに飲み物をつくる。
ゲームを してくれる。
ぼくの友達を 名前で呼んでくれる。
友達の前で けっしてぼくを貶さない。
ぼくの好き嫌いを 大事にしてくれる。
本を 読んでくれる。
悲しいとき そばにいてくれる。
こわい夢を見たとき、うん、うん、といつまでも聞いてくれる。
「どうしたの」
「なにかあったの」
といつも聞いてくれる。
そうするのは、子どもがすることには、何かわけがあると考えているんだ。
「ぶってもいい?」と聞くと、
「かるくならいいいよ」と許してくれる。
「にんげんは ほんきで なぐったり ころしあったりする」
と とうさんは 悲しそうに言う。
・・・
「とうさん どこにいったの?」
「とうさんは、戦争で死んだの」
ぼくは、泣いた。とうさんが生きていたら、どんなに嬉しいだろう。
読者は、とうさんが戦争で死んだことを最後に知らされました。
それを知った読者は、ぼくの想像する「とうさん」像をもう一度見ざるをえません。冒頭と最後の場面の絵(上の絵)はほとんど同じですが、とうさんが戦争で死んだことを知らされた読者は、最後の場面にこころを動かされると同時に、深い意味を感じることでしょう。
再読のことについて。
再読のとき、読者はとうさんが戦争で死んだことを既に知っています。それを知っていて、ぼくの想像する「とうさん」像を聞くことになります。読者は「とうさん がいたら…」というぼくの思いを最初から切実に感じていくことでしょう。初読と再読の読書体験は異なります。
また、将来、ぼくが父親になったとき、ぼくはぼくが想像するとうさんのようになるのではないかと予感します。
・・・
※『おとうさん』シャーロット・ゾロトウ文 ベン・シェクター絵 みらいなな訳 童話屋 2009年
【追記】
巻末の「訳者より」にこのような文がありました。「この絵本「A Father Like that」の訳出にあたり、作者シャーロット・ゾロトウさんの意向で、少年の父親不在の理由を戦争で死んだとしました。それに伴い、文章の細部を多少変更いたしました。」 (2022/4/29)