谷川俊太郎さんの「生きる」の詩。絵は、わたしちの日常生活を描いています。
「生きる」の詩を解釈して書いてみます。
「生きる」の詩は、
人が人として「生きているということ」は、こういうことではないかと、
手を変え 品をかえて、うたっています。
「生きているということ」は、「のどがかわく」「木もれ陽がまぶしい」「くしゃみすること」ですが、それは動物にも共通することです。
「生きているということ/いま生きているということ」
それは、ミニスカート、プラネタリウム、ヨハン・シュトラウス、ピカソ、アルプス。人は、服装、音楽、絵画、アルピニズムという、美の価値を求める存在です。
「かくされた悪を注意深くこばむ」
わたしたちは、倫理的な価値を追及する、存在です。
こうした文化的な価値を めざしているところに、
人が生きている理由がある、とうたっています。
「泣けるということ」「笑えるということ」「怒れるということ」。
自然な感情の発露ですが、「自由ということ」という表現が、この3連の最後にあります。
泣きたいときに泣き、笑えるときに笑い、怒れるときに怒ることができるのは、わたしたちが自由であるということです。精神の自由があってこそ、人は人間的に生きると言えます
「遠くで犬が吠え」「地球が廻り」「どこかで産声があがり」「どこかで兵士が傷ついている」状況のなかで、わたしたちは暮らしています。身のまわりの、様々なものごとの網の目のなかで 生きています。わたしたちと無関係なものごとはありません。
すべてが結びついています。そして、「いまいまが過ぎていく」時のなかで、わたしたちは生きています。
(ウクライナ、パレスチナの戦争、能登半島地震・豪雨被害の問題もあります)
でも、生きているということは、
ある意味、平凡なこと、当たり前のことです。
「鳥ははばたく」「海はとどろく」「かたつむりははう」。
人が人を愛することも、平凡で当然のことです。「あなたの手のぬくみ」「いのち」ということ、それは、いのちのふれ合いです。そこに、生きていることの証を求めています。
生きるとは何かを自問自答しながら、模索する 語り手がいます。
わたしたちが、人として生きるとはどういうことかを、考え、見つけるために生きようとうたっています。それが生きるということです。
絵は、
公園で あそぶ子どもたち、
死んだセミを 見つめるぼく、
絵を 描くこと、
庭に水をまき、できた小さな虹を みること
夕食や 誕生日会・・・
を描いています。
こうしたことのなかに、「生きている」意味を もとめています。
谷川俊太郎さんの「生きる」の詩が、巻末に掲載されています。
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※『生きる』 谷川俊太郎詩、岡本よしろう絵、福音館書店 2017年 (2025/1/9)