
90年以上昔の小学校が舞台です。このように生きた子どもがいました。
ちび、
と呼ばれる、男の子が、小学校に入学しました。
友だちも なく、
勉強の時間は、ほって おかれました。
休み時間も のけものに されました。
ちびは、
くる日も くる日も 学校に やってきました。
菜っ葉で くるんだ にぎりめしの弁当を もってきました。
六年生に なったとき、
いそべ先生が 受け持ちに なりました。
いそべ先生は、
子どもたちを 学校の裏の おかの上に、よく つれていきました。
ちびの絵が 好きで、壁に はりだしました。
習字も 壁に はりだしました。
学芸会の日、
ちびが 舞台に あらわれました。
「からすの なきまね」をするのだと、先生は言いました。
ちびは
あかちゃんがらすの なきまねを しました。
かあさんがらす、とうさんがらすの なきまねを しました。
朝のカラスの 鳴き方、
うれしいときの 鳴く方を しました。
だれの こころも、・・・とおい 山のほうに つれてゆかれました。
さいごに
古い木に とまっている からすを まねて 鳴きました。
カアゥ ワァッ! カワゥ ワァッ!
いそべ先生は、
ちびが なぜ カラスのまきまねが できるようになったかを 説明しました。
ちびは、日の出とともに 家をでて、
日没 家に 帰りながら、六年もの あいだ・・・
からすの 声を 聞いてきました。

ぼくたちは、ちびに つらく当たったことを 思いだし 泣きました。
年とった ひとたちも 涙を ふきました。
卒業式で クラスで たったひとり 皆勤賞を もらいました。
卒業後、
ちびが、家族と 炭を 売りに 町に出てきたとき、
みんな、「からす たろう」と 呼びました。
からす たろうも その名まえが 気に入ったというように
うなずいて ほほえむのでした。
帰り道の 山道に さしかかるあたりから、
からすの 鳴き声が 聞こえてきます。
うれしくで、たのしい、なきごえが。
・・・
「からすたろう」は、いじめられ、無視されても一日も休まず、学校に通いました。皆勤賞も取りました。
いそべ先生は、そんな「からすたろう」がどのような生活をしていたのか、よく知っていました。野ぶどうと花づくりの場面があります。いそべ先生は、かれが活躍できる場をつくっています。絵や習字を壁に貼りだしたりしています。彼のよいところを認めて、いかしている先生です。
「からす」の鳴きまねをするところが、クライマックスです。その姿は、子どもたち、大人、読者を感動させます。
八島太郎氏の「献辞」によれば、いそべ先生のモデルには、ふたりの恩師がいました。そのうちのおひとり、磯永武雄先生は上海上陸戦で戦死されました。「からすたろう」の時代には、戦争がありました。学校を出てから、「すらすたろう」には、どのような人生がまっていたのでしょうか。
・・・
※『からすたろう』 八島太郎文・絵、偕成社 1979年 (2025/1/25)